晴れてよし 曇りてよし 富士の山

2017.06.28

冠雪の富士静坐や瞑想を行っていると、これを続けていって一体どんな景色が拓けてくるのか?という疑問が湧くこともあるでしょう。

明治維新の前後に活躍した人で山岡鉄舟という人がいます。

身近なエピソードから言えば、日本であんばんを広めた人、と言うことになります。 東京銀座の目ぬき通りに本店を構えるあんぱんで有名なお店が、日本であんぱんを最初に作ったのだとか。 しかし、日本人に馴染みのあった小豆餡を、全く新しく登場したパン生地で包んだものは、パンなる代物に全くお目にかかったことのない当時の人には、最初なかなか受け入れられなかったと。 それを当時、明治天皇の侍従だった山岡鉄舟が、天皇に勧めたことが、アンパンが世に広まるきっかけだったと言われています。

歴史好きの人であれば、幕末の江戸城無血開城の立役者として山岡鉄舟の名をあげることでしょう。

江戸幕府の勝海舟の部下だった山岡鉄舟は、近代兵器で武装し、江戸を総攻撃すべく西から攻め上がってきた西郷隆盛の軍のいた駿府(静岡市)へ、特使として派遣されます。 アポもなく西郷に会いたい、とずんずん進んで行くわけですから、陣営を守る官軍から発砲されますが、弾は不思議と鉄舟に当たらなかった、というエピソードがあります。

山岡鉄舟

山岡鉄舟(1836~1888)

西郷隆盛との会談に成功し、これで歴史的な江戸城無血開城への道筋がついたことでした。
山岡鉄舟を念頭に、『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るなり』と西郷隆盛をして、言わしめた鉄舟の胆力は、一体どのようにして培われたものなのか。

その答え、鉄舟の場合は、座禅でした。

剣術の弟子を抱える道場主であった鉄舟ですが、とにかく暇さえあれば座禅をしていた、と言われています。 勿論、剣術指導もあり、書の揮毫も数多く依頼され、明治になってからは、なんと元幕臣でありながら、明治天皇の侍従に抜擢される忙しさです。

鉄舟の奥さん曰く、毎晩、道場の木壁に寄りかかり、座禅をしたまま眠っていたのだとか。 それほどまでに、座禅を通しての自己啓発の道を一直線に極めた人でした。

そんな鉄舟は、明治維新後、宮内省へ出仕するようになってから、静岡県三島の龍澤寺の星定和尚に参禅をしています。 この龍澤寺は、『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士の高嶺と、原の白隠』とうたわれた白隠禅師が、江戸時代に開山したと言われるお寺です。 原の白隠と出てくるのは、出身地が駿河(静岡県沼津市)の『原』という地名だったからです。

白隠禅師と言えば、『軟酥の法』で有名ですね。 頭のてっぺんに『酥』(”そ”と読みます。固まる前のおから状のチーズ)が置かれるイメージを持って、それが体の中の五臓六腑を通過して、結跏趺坐をしている足元にまで、ずっと流れていくイメージをする、という方法です。 この方法は、『夜船閑話』という白隠の著書に出てきます。

話が逸れましたが、当時の宮内省は、1と6の日が休日だったので、5と0の日に午前中で仕事を済ますと握り飯を腰につけ、草鞋がけで歩いて行ったのだとか。 東京から三島まで115キロあります。 今なら新幹線で1時間ほどですが、歩くと休みなしでも20時間はかかります。

箱根を越し終える頃、ほのぼの夜が明けます。この参禅が3年続きます。 そして、3年目に星定和尚が、初めて山岡に『よし』と許した。 ところが鉄舟自身では、とんとよいと思わない。『なんだつまらぬ。こんなことでよいなら三年通って馬鹿を見た』と、和尚の元を辞去して引き返して箱根に差しかかると、ふと山の端からぬっと現れ出た富士を見て、覚えず『はっ!』と豁然大悟。

喜びの余り、山岡は直ちに踵を廻らして、星定和尚のところへ走る。 和尚は山岡の顔を見るとにこにこして、『今日はおまへが、間違いなく、帰って来るだろうと待っていた。』と。

『晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿はかはらざりけり』

これは鉄舟が、その大悟の心境を現したものと言われています。

静坐や瞑想の先には、まだ見たことのない景色が待っています。

気負わず、期待もせず、ただ気楽に静寂の時間に身も心も委ねていくだけです。

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