まぶたの楽しみ

2016.05.20

仏像

無色界を見据えたまなざし

先日、断食をして、その空いた時間にひたすら座禅をする、という2泊3日の合宿に参加してきました。 実際に水だけで一切の食べ物を摂らなかったのは、60時間ちょっとでした。 2日半は全く何も食べなかったことになります。

個人的には、もっと長く断食を続けたかった。 何をまた酔狂な、と声が飛んできそうですが、頭痛がしたり気分が悪くなったりする2日目を通り過ぎると、そこには透明な世界が現れてくるので止められなくなります。 この話はまた別の機会に。

さて、ひたすら座禅をして過ごすほうですが、これは20分行って、それから直ぐに5分間ほどかけて参加者に警策(きょうさくorけいさく)なる棒による背中叩きがあり、その後35分休憩することの繰り返し。 その座禅ですが、姿勢を正して半眼でやるように指導があります。

この薄目を開けて座るのが座禅です、というところが当番にとっては難関になっています。 その昔、社会人としてスタートを切った際に、本配属になる前、半年間にわたって新人研修なるものがありました。 その中に禅寺に放り込まれる研修があり、その時初めて座禅と出会いました。
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すでにその時点で、静坐と言うか瞑想を何年間も毎日行っていたので、座禅も同じようなものだろうと考えていたわけです。 足を組むところはまだしも、一番驚いたのが薄目を開けて1メートルほど前の畳に視線を落とす、という指導。 そして、さらに混迷が深まったのが、あの警策をバシッといただくこと。 むむむ、ムムム、無無無色界。。。

半眼にして座る、という方法が自分には合っている、と思える方はそうすればよいでしょう。 しかし、私達にはありがたいことに、”まぶた”というものがあります。
 
魚にまぶたはないですし、両生類にもありません。 彼らは眠る時にも目を閉じることが出来ない。 爬虫類の一部や鳥にはまぶたがあり、哺乳類もまぶたを持っています。

夜寝る時には、まぶたが閉じられるお陰で、外界からの視界の刺激をシャットアウトして、安眠できます。 起きて活動している時には、まばたきをすることによって、瞳に潤いを与えてくれるありがたい存在です。
 
私達はごく稀に、心ここに在らず、という目の表情に出会うことがあります。 何かに完全に心が奪われている人が見せる、あの目の表情です。 それは師匠、パートナーといった人が対象だったり、何かの事柄だったりします。

優れた仏像でも”心ここに在らず”風な、深い魅惑的な眼を観ることが出来ます。 この時の心ここに在らずは、あの欲望も物質をも超えた大いなる宇宙と一体になっている眼差しです。
 
これからわかることは、心が大いなるものに定まった時に自然に出る、あの深いまなざしは、結果であって、過程ではない、ということです。 ああいう表情をするから、大いなる存在に近づくのではなく、それと一体になった結果としてあのような表情が自然と生まれる、ということです。

大いなる存在に近づこうとする普通の私達にとって、このありがたい”まぶた”を活用しない手はないでしょう。 静坐では、当然ながらまぶたは閉じることを勧めます。

まぶたを閉じて目からの感覚が入らないようにするだけでも、私達はグッと深い静寂の意識に入りやすくなります。 そのような深い禅定に入っていると、とても直ぐにバシッと背中を叩いたり、叩かれたりするモードには入れないことがわかると思います。
 
中学生の国語の教科書に円地文子さんの『めがねの悲しみ』という随筆が載っていました。 今となっては細かい内容を覚えていませんが、たいせつな目の前にガラスが鎮座する自分の境遇を悲しむ、というようなことだったと思います。

私たちのたいせつな目の前には、まぶたがいつでも自由に開閉できるように鎮座していてくださいます。 そのお陰で、真昼間であってもまぶたを閉じて、あの安らぎの静坐の時間に没入することができます。

円地さんの言い方をお借りすれば、これぞ『まぶたの楽しみ』に他なりません。 一休みしたい時にお茶を飲むように、自分の意思で自由にまぶたを閉じられる境遇を、もっともっと愉しんで良いのかも知れません。
 
©天空庵

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