4月のオンライン瞑想は13日の満月、そして27日の新月の日になります。

今月のミニトークのお題は、『目覚めの体験』です。 古今東西、大いなる覚醒の体験をした方のその体験に至る過程に想いを馳せたいと思います。

それぞれ一日二回予定され、午前は9時半スタートで、夜は8時半スタートになります。

新月や満月の日には私たちのストレス解消が特に起こりやすい日になるので、深い真我との結びつきを強めると良いので、これらの日にグループでの瞑想会を企画しています。 

参加は無料で、瞑想の流派のようなこともありませんので、ご自身の方法で以下のリンクからご参加いただけます。 申し込みも不要になっています。

なお、開始時間の3分ほど前から入室していただけます。

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Zoom ミーティング

時刻: 2025年4月27日 09:30 AM 大阪、札幌、東京

https://us02web.zoom.us/j/83182633107

ミーティング ID: 831 8263 3107

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Zoom ミーティング

時刻: 2025年4月27日 08:30 PM 大阪、札幌、東京

https://us02web.zoom.us/j/84548703172

ミーティング ID: 845 4870 3172

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4月13日のオンライン瞑想会は終了しましたので、リンクは消去しました。

3月のオンライン瞑想は14日の月蝕の満月、そして29日の日蝕の新月の日になります。

それぞれ一日二回予定され、午前は9時半スタートで、夜は8時半スタートになります。

新月や満月の日には私たちのストレス解消が特に起こりやすい日になるので、深い真我との結びつきを強めると良いので、これらの日にグループでの瞑想会を企画しています。 

今月は特に満月の14日には皆既月蝕が起こりますので、しっかり深く真我に目覚めていきたいです。

また、29日の新月の日には皆既日蝕が起こるだけでなく、太陽、月、水星、金星、土星、ラーフが魚座で一堂に会します。 

その意味するところは当日お話させていただくつもりですが、特に深く深く瞑想をするのが良いです、というお話になります。

ご一緒に、バガバッドギータの2章23節に登場する『火も燃やすことが出来ず、水も濡らすことが出来ず、風も乾かすことが出来ない』あの存在に私たちの意識をご一緒に昇華させ、真我(アートマ)を体現させていきましょう。

参加は無料で、瞑想の流派のようなこともありませんので、ご自身の方法で以下のリンクからご参加いただけます。 申し込みも不要になっています。

なお、開始時間の3分ほど前から入室していただけます。

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瞑想会は終了しましたのでリンクは消去しました。

12月31日の新月オンライン瞑想会で、瞑想後ガーヤトリマントラを108回唱和して新年を迎えます

今月は新月・満月・新月と3回のオンライン瞑想会となります。 それぞれ一日二回予定し、朝は9時半スタートで、夜は8時半スタートになります。

大晦日の31日が新月に当たりますので、オンライン瞑想会の後、暗闇から私たちを解き放ち、啓発の光へと導く『ガーヤトリ・マントラ』を108回唱和して、新年を迎えたいと思います。

ジョーティッシュ占星術では、12の星座と12の部屋を9つの惑星で観ていきます。 12×9=108です。 また、最も重視される月宿(ナクシャトラ)は27ありますが、その中はさらに4つの部屋(パーダ)に分割されます。 27×4=108です。 108という数字は、宇宙を網羅しているのです。

通常ガーヤトリ・マントラは3回、9回、27回、108回と詠唱されます。 3の倍数なのは、物質界、精神界、天界(ブール、ブワッ、スワハー)の3つの実相全てから闇を取り除くからです。 

当日は画面にガーヤトリマントラの文面を表示しますので、知らない方でも唱和していただけます。  音が大事なので、本来はサンスクリット語の発音記号で表記すべきところですが、便宜的にカタカナで表示します。 単語での区切りでなく、発音する時の流れを重視した表記にしています。 また、抑揚は当番が自分の師匠から習ったものになります。

+++(ガーヤトリ・マントラ:リグヴェーダ=3.62.10)+++

オーム ブール ブワッ スワハー

タットサービトルワー レーニャム

バルゴー デーバッシャ ディーマヒ

ディヨーヨーナ プラチョーダヤート

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12月1日と15日及び31日のオンライン瞑想会は終了しましたので、リンクを消去しました。

『必要なことしか起こらない』と腹を括れるか

最近の瞑想に関する質疑応答ですが、ご参考になれば幸いです。

質問1)

>瞑想中は、いろいろな想念、考え、心配事などが浮かんできても、マントラに戻り、瞑想中に

>起こることはすべて必要な、良いことと聞いたように思います。

回答1)

そうですね、私たちの側から瞑想に臨む時に何かすることがあるとすれば『無邪気にマントラを想う』だけ、ということになります。 

その『マントラを想う』というのも実は、起きながらにして『考えることも含めて、何もしない』ための手段に過ぎません。

起きているのに自分から何もしない、働きかけない状態を作るというのは、一見すると本能(起きてる時は行動!)とは矛盾している行動なので、ほっておいて私たちが自発的にやることは普通はないと思います。

私たちは縁あって、瞑想という起きているのにわざわざ何も考えない、行動しない状態を体験している訳ですが、そこで起こっているのは、身体という全知全能の大自然に主人になってもらう、ということになります。

身体は元々主人なのですが、私達はえてしてその邪魔をしてしまいがちです。 

悩んだり、心配したりすることもその『邪魔』の一例です。

『この状況に置かれたら誰だって悩むでしょう』ということは実生活で起こるわけですが、たとえ1秒でも1分でもそこから完全に離れて、あの全知全能に全て委ねるのが『瞑想』ということだと思います。

瞑想中に起こるかとは全て必要な良いこと、という意味は、私たちが考えたり、悩んだりすることから離れ、全知全能の側に全てを委ねた時に、自然に生ずる状態のことを言っていると思います。

質問2)

>また、日々規則的に瞑想して、活動していれば、同じように様々な、良い事と思われることや、

>大変な困難な出来事が起きても、やはり瞑想中と同じで、

>瞑想に戻り、必要で良い事が起きていると(一見大変なことに見えても)受け入れることが、良いのでしょうか。

回答2)

起きながらにして何も考えない、何も悩まない状態をたとえ短時間でも体験するのが瞑想と申し上げましたが、その先の世界も当然あります。

それは一見大変なことに見える状態の中でも、蓮の葉に落ちた水滴のように、そのことに煩わされなくなる状態です。

それは『自由な境地』と表現されることもあります。 

自由とはあまりにありふれた表現に聞こえるかも知れませんが、瞑想中のあの無心の状態の中で私たちは体験しています。

ヨーガという言葉は、『繋がる』という意味だそうですが、何と繋がるかが問われているわけです。

一つの答えはあの『自由』と繋がることで得られる『自由な境地』ということだろうと思います。

現実の世界で私たちに起こることは、時にとても大きなインパクトとして言葉でのどんな説得や慰めも吹き飛ばして

しまうように思えるかもしれません。

ここでも私たちの側から出来る最良のことは、自分をそこに挟まないことです。 

その『自分を挟まない』手段は、あの無念無想の時間を一瞬でも二瞬でも体験し、全知全能に委ねることではないでしょうか。

じたばたしてもしなくても、私たちには必要なことしか起こらない訳ですから、心配しても何も変わりません。

であれば、何も考えず何も悩まない、あの瞑想時に体験する僅かかも知れない『何物にも囚われない自由な境地』に全てを委ねてみてはいかがでしょうか。

瞑想に正しいも正しくないもあるのでしょうか?

今を遡ること30年数年前、埼玉県与野市というところで、1ヶ月ほど寝泊りして奉仕的なお仕事をしていました。 それは瞑想についてもっと学びたい、という当時の願望を実現する為の準備でもありました。

普通の会社勤めの人間が半年間の休職を願い出るのは、日本企業ではそれなりの覚悟が必要です。 断られたら仕事の方を辞める覚悟で申し出ると、すんなりとオッケーが出て拍子抜けしたほどでした。 当時は子供たちが小さかったこともあり、休職ですむならそうしておきたい、という考えがあったことは事実です。

そしていよいよタイ国はバンコクの寺院に寝泊りしての、合宿形式のみっちりした講習が始まりました。 

師匠の話を一言も聞き漏らすまい、と翻訳を通してでない形を希望して一心不乱にノートを取りながら、日課の流れに心地よく身をゆだねていました。

そんな生活が2ヶ月ほど過ぎた頃でしょうか、瞑想に関してなんとも精妙にして、玄妙な説明にバーンと出くわしたのでした。 それは色々な瞑想で使われる真言(サンスクリット語でマントラ)の使い方の説明でした。

そのくだりを聴いた瞬間、自分の中で何かが氷塊し、スコーンと抜けるような気持ちになったの覚えています。 眼から鱗が落ちる、という表現はこのことかと思える瞬間でした。

それと同時に、自分がそれまで10数年間、日々行ってきた瞑想が全く間違っていたことに気づいて、愕然とする想いにとらわれたのでした。 

瞑想は簡単で誰にでも出来ますよ、という説明をマントラのように何度も聞いていたからでしょうか。 瞑想に正しいも正しくないもある、などと言うことは夢想だにしていませんでした。

これまでの月日を返してくれとばかりに、しばし呆然としながらも、フツフツと嬉しさがこみ上げてくるのをどうすることも出来なかったのを、昨日のことのように思い出します。

と同時に、仕事を辞める覚悟で長期休職までして講習を受けようという気持ちに突き動かされていたのは、この気付きの為だったのだ、と俄然ガッテンがいったのでした。 

翻訳を通さずに聴いていたのも功を奏したようです。 なぜなら、あの玄妙な解説のニュアンスは翻訳からは、多分確実に得られなかったと思うからです。

そう、自分の瞑想は全く間違っていたのでした。 よくもまあ、それにも関わらずそれまで10数年も続けてこれたものだと思いましたが、ただただ嬉しい日々があったので、続いていたのだと思いました。

こんなことを書いて、瞑想している人を脅かすつもりは全くありません。 心地よく瞑想が出来ている、座ることが苦もなく続けていられる、という方は全く心配には及びません。 

しかし、自分の場合は明らかに間違った瞑想だったことに気づいてしまったのです。 

では、どう間違っていたのか? 言葉にして記すつもりはありませんが、この気づきの体験が自分の瞑想指導の第2の原動力になっているのは間違いありません。

第1の原動力は10代の後半の自分に突然起こっためくるめく体験でした。 その後に瞑想と出会い、その体験を分かちあいたい、という気持ちは今も変わらず持ち続けています。 

これまでにご縁があって瞑想指導させていただいた方で、もし無理して座っているような感じがあったり、実習しなくなって久しい、というような方がいらっしゃいましたら、このご時世ですからズーム等のテレビ電話システムでご相談にのらせていただきます。 

謹賀新年 食べ過ぎに効くのは?

 明けましておめでとうございます。

 お正月は食べ過ぎてしまうことが多い時期ですが、そんな時はどう対処してますか?

 お散歩する人もいるかも知れません。 もちろんそれは良いことですが、それは腹七分目とか八分目だった時の話です。

 もう動けない〜というほどたくさん食べてしまった時は、散歩しない方が明らかに良いです。

 ならばどうするか?

 自分で出来る最良のことは、五感をシャットアウトして、考えから離れることです。

 そうこれはまさに瞑想で達成される身体の状態ですね。食べ過ぎている時に、身体にとっての最優先は消化です。 体が選択する優先事項を妨げないようにすることが、自分で出来る最良のアクションであり、それはまさに『考えない自分』になることで、身体に思い通りの仕事をさせてあげることが出来る、という訳です。

座禅は瞑想とは違うものなのですか?

 冬の永平寺の山門には、気持ちを凛とさせてくれる荘厳さと厳しさがあります。
 その永平寺では毎年12月と2月に1週間に渡って、食事と洗面所以外の時間は全て坐禅に打ち込む、という修行があります。
 今回はその12月の1週間に渡る坐禅三昧修行が終えた直後に、曹洞宗の大本山である永平寺で参禅に伺いました。
 最終日は最も大変らしく、丸一日坐禅をやった後に、通常は夜9時に就寝するところを、そこからさらに夜中の12時まで坐禅。
 その後に坐禅三昧の感想を師匠に問う時間がある。 そこでこんなやりとりがありました。
 雲水問いて:『もし我見(がけん)起こるときは静坐(じょうざ)して観察せよ、と言われますが、「非思量』(ひしりょう)の坐禅の中において観察するとはどのようなことなのでしょうか』
 天空庵流の質問の意味の解釈は=>『そもそも無心になって何も考えない状態であるべき坐禅中に、考えが浮かんだらそれを観察しなさい、と指導されます。 しかるに考えていない時に、どうやって浮かんできた考えを観察することが出来るのでしょうか?』
 これは真っ当で、良い質問だなと思って師匠の回答を待ちます。
 すると、師答えて:『さて「思量」「非思量」言語にとらわれる道なし。自己の正体を参究(さんきゅう)せよ。』 つまり、考えているとか考えていない、とかの言葉尻に気をとれれていないで、修行を続けなさい、と。
 これはこの肝心要とも言える重要な質問の答えになっていないように思います。
 あえて修行中の雲水さんにその答えをさらに考えさせようとしているのかも知れません。
 この答えの中にこそ、坐禅の先の広い世界の可能性を知る窓口が潜んでいると思えるからです。
 今回はまた、「坐禅をするときは、目は閉じません」と教えていただいたことに驚きます。 目を閉じることは、現世との繋がりを遮断することになるからだそうです。
 現世にありながら現世を超えた境地の体験を求めるのであろう坐禅が、現世に留まろうとさせる修行方法とは一体何なのだろうか、と考えさせられました。
 また、付け加えるように、「目を閉じると、眠くなりますから」とおっしゃられたことには、とても人間らしいなと微笑ましく思いました。
 しかし、寝てしまうことは身体の必要性として、寝ないようにするのも不自然に思えてきます。
 あの有名な警策による、『バシーン』という警告も、坐禅中は体は動かさないように、という警告のようです。
 しかしこちらも、深い瞑想の状態に入ると身体は動くことがあるので、それをしないようにする、というのは深い瞑想に入ろうとしないように誘導している印象です。
 かように坐禅と瞑想は180度言っても良いほどの違いを感じます。
 かたや瞑想が、意識が静かな領域から考えをなくしていこうとするのに対し、坐禅はあくまでも意識を保ち続ける方向に仕向けようとしている印象です。
 瞑想は考えから離れることを意識の拡大の手段に使います。
 どのアプローチが自分に向いているかは、私たち一人一人の選択になります。