静坐の指導って何すること?

2017.07.21

静坐北半球に位置する日本列島は、今真夏、真っ盛りです。

こんな時期に想像しにくいところですが、冬が来ると当然寒くなります。
欧米諸国は北半球でも、緯度が高い位置にある国が多いので、北海道のように冬の寒さは相当厳しくなります。

そうなると家に閉じこもりがちになる冬の時期は、オーケストラやオペラの季節になります。
たまにコンサート会場にでも出かけて音楽でも聴かないと、やってられない気分になってくるからです。

当番も、日本を離れ、冬がとても寒い場所に住んでいたことがありました。
地元の人に勧められるままに、安いオーケストラのシーズン券をなんとか手に入れて、冬の間せっせと通ったことがありました。

音楽など素人もいいところですが、それでも聴いていると、演奏会によって観客の拍手による反応がたいそう違うとか、指揮者によって同じ曲でも随分印象が違う、などということにだんだん気づくようになります。

クラシック音楽の場合、基本的に昔の作曲家の作品を演奏することが多い訳ですが、同じ曲でも演奏時間の長さも違いますし、引き起こされる感情のようなものも違ってきたり。 それらの差は一体どこからくるのだろうか、と思わずにいられないことでした。

話は一気に変わりますが、天空庵などと称した当会場では、グループ静坐会や瞑想会の集まりで、参加する方達と一緒に静寂の時間を共有させてもらっています。

そういう時に、当番は始まりの鉦を鳴らし、時間がくると終わりの鉦をチ〜ンと鳴らしています。

そんなこと誰だって出来る!と思われているかも知れませんが、その通りなので反論できません。

しかるに一体ここで何をしているかと言えば、目覚めの体験への道先案内人をさせてもらっているつもりです。

先ほどのクラシックの世界ですが、素人がタクトを振ってもオーケストラは音を出さない、という話を聞いたことがあります。
なぜなら、バイオリンやチェロを弾くプロのオーケストラメンバーは、指揮者が明確にその曲のイメージを持っていないとわかれば、音を出さない、と言うのです。

そう、指揮者と言うのはただ棒を振っている訳ではなく、曲の全ての楽器のパートの全部の音の流れが明確なイメージとして、頭の中に構築されている人のことなのだそうです。 楽団員は、それぞれの楽器でその指揮者のもつ曲のイメージを、具体的な音として表現しようとします。 ちょうど映画監督が明確な演出のイメージを持っていて、それを役者さんに具現化してもらうように指示するのと同じでしょう。

実は静坐や瞑想の指導などと言うのもおこがましいのですが、そのような先の体験のしっかりしたイメージがあるかどうかが、指導出来るかどうかの大きな分かれ道です。

それに比べると、静坐や瞑想をスタートしていただくよう最初に指導をする部分というのは、誰にでも出来ると言ってしまうと語弊がありますが、ある程度機械的に出来る部分とも言えます。

山岳ガイドは、五合目までの体験しかないと、頂上までのガイドは難しいでしょう。 他のガイドの体験談を聞いたり、登頂した人の記録を読んだりすることは出来ても、自分で登って体験したのとでは、全く意味が違ってきます。

私たちが日常生活で体験する喜びは、いわば『動物脳』と呼ばれる本能的な部分が感応して生じている場合がほとんどです。 一方、『人間脳』とでも称する言わば万物の霊長たる人間ならではの喜びは、全く種類が違う多幸感というか至福とでも呼ばれるものです。

人として生まれたからには、『人間脳』が感じる至福を体験しないのは勿体なさ過ぎます。 その多幸感に浸る世界は私たちの視界から隠れていることが多く、日常の延長では体験出来ない場合が多いのが現実です。
 
誤解を恐れずにあえて言えば、それは普通では起こりにくい。 そこには狭い道があり、その水先案内人をするのが、静坐の指導ということになります。

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