雨ニモマケズ風ニモマケないよう法華経でいきます

2018.04.29

宮沢賢治 京都を守る比叡山延暦寺。

都の鬼門と言われた北東に建てられたこちらのお寺の広い境内の一角に、ひっそりと宮沢賢治の小さな石碑が立っています。 これは大正10年(1921年)、賢治が24歳の時に父との和解の二人旅で比叡山に登り、その時十二首読んだ短歌のうちの一つ『根本中堂』という歌が刻まれた碑です。

『ねがはくは 妙法如来 正偏知 大師のみ旨 成らしめたまへ』

比叡山延暦寺と賢治?! どうしてかと思ったら賢治は熱心な法華経の信奉者であり、それが精神的バックボーンだった、とその時初めて知りました。

最近NHKテレビの『100分de名著』なる番組で、その法華経が2018年4月に4回に渡って取り上げられていました。 見逃した方は、NHKオンデマンドにて、今なら視聴することが出来ます。

解説者は、法華経をサンスクリット語の原典から翻訳した著書を持つ植木雅俊さんでした。

日本で使われるお経は、漢訳仏典がそのまま使われているので、何が書いてあるのかわかっても分からなくても、とにかく唱えています。
般若心経などその最たるものの一つで、お遍路さんなどを体験すると、各お寺で唱えるので流石に口をついて出てくるようになります。

中国の人は、意味がわかるように翻訳されたお経に触れています。 我々日本人は中国語のお経をそのまま使っているので、一般人には意味がわかりません。 かつ音も中国語に翻訳された時は、オリジナルのサンスクリット語に極めて近い発音になる音写の漢字が当てられていたものが、日本の漢字の音読みによって、相当に音が離れてしまっている、という二重に訳の分からない状況で仏教と関わってきました。

お経の読みの音がいかにオリジナルから離れてしまっているか。 例えば般若心経の最後の”娑婆訶”は全国的に”ソワカ”と唱えられていますが、サンスクリット語のオリジナルは、”スワーハー”の発音であることからも、音の離れ具合の感じを掴んでいただけるかと思います。

その疑問をすっきりさせていただいたのが、この植木雅俊さんの”100分de名著 法華経”の解説でした。

翻訳の翻訳の翻訳となると伝言ゲームよろしく、意味がどんどんずれていくであろうことは想像に難くありません。

そこにオリジナルの原典があるのであれば、それに当たってみるというのは至極当然のことかと思います。

学生の時に受講した一般教養の哲学の先生は、初日の講義でこう言っていたのを思い出します。

『自分はギリシャ哲学が専門です。 キリスト教徒だった自分は、新約聖書の理解を深めるにはオリジナル版で読むしかない、と思い立って高校生の時に古代ギリシャ語の勉強を始めました。 その延長で、プラトンだとかアリストテレスにのめりこみました。』と。 (新約聖書がなぜギリシャ語かは以前のこちらのブログを参照ください。)

この植木さんのサンスクリット語から現代語訳した”法華経 梵漢和対照・現代語訳”では、それ以前の翻訳本と違いそれによって解釈まで違ってくる訳が数百カ所に渡って登場します。 そのあたりを”100分de名著 法華経”では、いつくかピックアップして解説しています。

それらの翻訳による仏典の解釈の違いの具体例は、植木さんの新書版の”仏教、本当の教え”という本でコンパクトに解説されていました。

賢治が『雨ニモマケズ』の詩の中で、「ソウイウモノニ/ワタシハナリタイ」としている「デクノボー」のモデルと言われる『常不軽菩薩』(じょうふきょうぼさつ)が登場する第20章が、法華経のクライマックスとも解説されています。 日蓮聖人もこの常不軽菩薩を大切にされたとか。

延暦寺の賢治碑

延暦寺の賢治碑

そこでは、”常不軽菩薩”を意味するサンスクリット語の元々の言葉である”サダーパリブータ”の解説が登場します。 常に人々から軽んじられ、平たくいえば、バカにされた菩薩というわけです。

しかし、ここから話がややズレていく感じになりました。 細かい話は省略しますが、サンスクリットの文法を調べると、軽んじられた、とも軽んじられなかった、とも全く正反対の2つの解釈が出来る、と進んでいきます。

その結果が、”現代語訳 法華経”の本の中で実際に使われた『常に軽んじない[のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる]菩薩』という長〜い章のタイトルに繋がったとか。 担当編集者もこんなに長い章の名前をオーケーしたそうで、それで出版されています。

ここに言葉の翻訳の機微が隠れています。

私たちはいつの間にか日本語を覚え使っていますが、普通はわざわざ文法だとか意味だとかを勉強したりはしません。 勿論、専門用語的なものは国語辞典で調べますが、日常の話し言葉はそのままで意味がわかります。 日本人で日本語をわざわざ外国語に翻訳して理解してます、という人は普通いないでしょう。 日本語を日本語のままでわかっています。

世の中に外国語から翻訳された本が沢山ありますが、翻訳者がその2ヶ国語を母国語として理解している場合とそうでない場合で、雲泥の差があります。

専門用語を除いて辞書をひくこともなく、文法を調べることもしないで言葉がわかるのは、母国語レベルです。 翻訳とは、関わる2つの言語それぞれを、そのままに理解出来る人が行う作業だと思います。 それは、言葉の意味だけでなく、意図までも手にとるように理解出来るからです。

ですから、この”常不軽菩薩”の元の言葉である”サダーパリブータ”にしても、そのサンスクリット語の言葉を使った人の意図も一つです。 勿論、掛け言葉というのもありますが、ここでは明らかにそういう意図はないでしょう。

それだからと言って、植木雅俊さんの訳された法華経の価値を決して下げるものではありませんが、サンスクリット語を母国語のように理解した上での翻訳になるとさらに素晴らしいものになっていくことかと思います。

お経に書かれている内容の解釈の話になりましたが、しかしそれよりもっと重要かつ貴重なことは、『体験』そのものです。 そしてここには、言葉に出来ない”体験”を言葉で表現しようとするジレンマがあります。

苺のショートケーキの解説本を何百冊読破したところで人生は変わらないかも知れませんが、それを一口味わうと人生は確実に変わります。

そのケーキを食べた人が、”美味しい!”、”めっちゃ美味しい!”、”こんな美味しさ生まれて初めて!”といくら美味しさを表現しようと、それを聞いた人が味わった体験にはいきつきません。

多くの人に広めていきなさい、と釈尊が弟子たちに語ったのは、その『体験』へと最短で導く方法であり、『体験』そのものであったはずです。

いつもの金太郎飴ですが、『静坐』は在家の私たちが自宅で続けられ、正しく行えうことが出来れば、あの『体験』へと導いてくれる、とても簡単な方法(サーダナ)の一つと言えます。
©天空庵

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