ビートルズの師匠の不死鳥伝説の真偽は?

2019.02.06


北インド・リシケシでのビートルズ・1968年
インドのビートルズ・1968年

 世界中の人気をあたかも独り占めにしていたイギリスの若者4人のバンド、ビートルズが人気絶頂の最中、突然インドのアシュラムで生活をしたことは、今から約50年前に大きなニュースとなりました。

 その彼らが師匠としたのはインドの隠遁者として聖人グルデブの元で修行したマハリシという方でした。

 そのマハリシのお弟子さんの中にビートルズとは違った系統で有名になったディーパック・チョプラという人がいます。

 この方、今やニューエイジ思想の旗手の一人として世界的な知名度を得るに至っています。 その初期の著書『パーフェクト・ヘルス』(1991年初版)は、アーユルヴェーダ的生活の仕方の具体的な指南書として、世界的なベストセラーとなりました。

 当番は、この方が無名時代の1985年に米国東海岸のコネティカット州というところで開催された3泊4日のリトリート研修で一緒になったことがありました。

 30名程度の小さな研修会だったので、参加者の中で目立っていました。 ディーパック・チョプラさんはボストンから参加され、友人のレバノン人医師のトニー・ネイダーという方と二人で参加していました。 

 このレバノンの方はアラブ人男性の義務だと言う鼻の下にヒゲをたくわえ、トニーは本名でなく、アメリカ風な名前をご自分で名乗ったものでした。 チョプラさんに付き合って研修会についてきているようでした。 

ディーパック・チョプラ氏(1992年)
ディーパック・チョプラ氏・1992年

  ディーパック・チョプラさんはその後程なく、このマハリシ師から引き上げられる形で急速にその名を知らぬ者がいない存在になっていきました。

  そもそもこの指導を受けて数年の方がそれ以前に20年以上も側近だった人たちがいる中で、マハリシ師の注目を集めたのは、インド人で科学者(医師)だった要素もさることながら、苗字がチョプラだったことも関係しているのでした。

  この頃はアーユルヴェーダの復活にマハリシ師は、情熱を持って取り組んでいた時期でした。 

  第二次世界大戦終結後、それまでイギリスによって禁止されていたアーユルヴェーダ医学を復活させようという機運がインド国内で高まります。

  イギリスからの完全独立を勝ち取った1947年の翌年、チョプラ・レポートという報告書が作成されます。 これは現代医学に元々の医学であるアーユルヴェーダを統合した医学を推進すべし、という提言をまとめたものでした。

  これはその報告書をまとめる有識者の座長がラーム・ナタ・チョプラ博士だったので、そのレポートはチョプラ・レポートだった訳です。 このチョプラ博士とディーパック・チョプラ氏は血縁がある訳ではないのですが、この名前にマハリシ師は反応されたようです。 

 この現代のディーパック・チョプラさんですが、アーユルヴェーダに関する著作をたくさん出されましたが、ご本人の口から『自分はインドで西洋医の医師資格を取りましたが、実はアーユルヴェーダのアの字も知りませんでした』と話すのを聞いたことがあります。

  次々と出版されたアーユルヴェーダの著作でその専門家という地位を不動のものにされましたが、インドからの専門家達にレクチャーを受けて、自分が単独著者として出版されたというのが実情だった、と言うのでした。 

  このチョプラさんは、その後弟子を破門されることになるのですが、そのきっかけが、知る人ぞ知る『オレンジ・ジュース事件』でした。

  ことのきっかけは、1991年の7月末のことです。 

  当時マハリシという方はインドのデリーの郊外に本拠地を構えていらっしゃいました。 そこで外国人の弟子の一人から差し出されたオレンジジュースを飲んだところ、激しい腹痛に襲われ、膵臓が腫れ、腎臓は機能不全に陥り、心臓発作を起こして意識不明となって病院に担ぎ込まれました。 どうも毒が盛られていたようなのです。

  数日しても容態は悪化の一途を辿り、多臓器不全となっていく中で、インドからイギリスの病院へ空路搬送し、そこで腎臓透析をする決断がなされます。

  その間、インドでの運動の中心人物であったマハリシ師の甥であるプラカーシュとアーナンダ・シラバスタヴァの2人は、この容態の事実を絶対に外部に漏らさないようにと、強行に主張したそうです。 

  結局、ごく一部の人間だけが知っている状態で、チャーター機でマハリシ師はロンドンの病院に搬送されることになり、ディーパック・チョプラ医師も同行します。

  ロンドンの飛行場から病院に向かう救急車の中でマハリシ師の心臓は停止してしまいます。 つまり『亡くなって』しまった状態になります。 

  チョプラさんは、心臓が停止したマハリシ師を救急車から下ろし、自分の両腕で抱えて病院の床に横たえ、そこでAEDによる心臓蘇生を試みたところ、心臓が動き出したそうです。

  そしてICU病棟に移されましたが、人口心肺装置に繋がれることになり、臨床的には『死んだ』状態だったそうです。

  それから1日が経過し、マハリシ師は奇跡的と言える回復をみせ、腎臓の機能が回復し、呼吸も心拍も自力で行うことが出来るようになった、と言うのです。

  そして数日後には、ベッドに起き上がり、蜂蜜入りのホットミルクを飲めるほどに回復していきます。

  しかし、一旦心肺停止に至ってからの回復であり、年齢的にも73歳です。 危機はまだ続きます。

  一時、深刻な貧血状態に陥り、輸血が必要ということになりました。 

 ABO血液型やRh血液型の照合をしたところ、周囲にいる人たちでマハリシ師に輸血出来る血液を持っているのは、ディーパック・チョプラさんだけ、ということが判明したそうです。

  ところが、マハリシ師は輸血を拒否。 輸血によってその人のカルマを受けることを良しとしない、という理由のようでした。

  そこで赤血球はその生成過程で脱核するので核がないので、当然DNAもなく、カルマを記憶していないことを説得して、ようやく輸血に応じてもらえたそうです。

  こうして、チョプラ氏の血液がマハリシ師の身体に入ることになり、二人の絆は益々深まっていくことになります。

  結局、病院を退院してからもロンドンのホテルで静養し、回復に1年間を要することになります。 その間は、『沈黙の行』に入っていることにして、公の場から一切姿を消しました。

  その後に定住の地に選んだのが、ドイツとの国境に近いオランダのフロードロップという小さな町でした。ロンドンからヘリコプターにて現地に移動して、その後、そこが生涯の居住地となるのでした。

  それからと言うもの、このチョプラ氏がマハリシ師の名代という形で世界各地へ講演に向かいます。

  当番もそのような会場に一度立ち会ったことがありますが、チョプラさんが会場に入って来るなり、まるでロックスターが登場した時のように、人々の『ディーパック!ディーパック!』コールが始まるのです。 

  そんな状態が1年ほど続いた1993年7月に状況は動いていきます。

  マハリシ師から『お前は私のライバルになろうとしているようだな』と言われます。 

  そして、『これからは世界各地を旅するのを辞めて私の元にいなさい。 そして本を書くことも辞めなさい。 それが出来なければ私の元を去りなさい。 24時間以内に結論を出すように』と唐突に最後通牒を与えられることになります。

  チョプラ氏の結論は、躊躇なく師の元を離れることでした。

  そのままオランダを離れ、ボストンの自宅に戻るや否や電話がなります。 それはマハリシ師からの電話でした。

  『お前は私の息子のような存在だ。 私が築きあげたものは、全て引き継がせるつもりだ。 私の元に戻ってきなさい。 そうすれば、全てはお前のものだ』

  この時点で一説には、推定資産1000億円はあったと言われています。 それを全て自分の後継者として引き継いで欲しいから戻ってこい、とマハリシは言ったそうです。 

  しかし、チョプラ氏は翻意することなく、最終的にマハリシ師の元を離れることを選びます。 インド人として、師匠と弟子の関係をチョプラ氏はよくわかっています。 それにも関わらず、あまりに『人間的な』師の対応に失望した、と言うのです。 

  そのことを伝えると、マハリシ師からは、『どのように進むにしても、それはおまえにとっては正しい選択であろう。 おまえを愛しく思うが、これからは一切おまえには無関心を貫く』と言われたそうです。

  『無関心を貫く』と言われたことに傷ついた、とチョプラ氏は言います。

  これらの二人の会話は両名の母国語であるヒンディー語なので、言葉のニュアンスの齟齬は一切ない、と考えてよいかと思います。 

  この後、マハリシ師の組織からチョプラ氏の名前は抹殺され、一切語られることはなくなりました。

  一方でチョプラ氏は、マハリシ師の強力なブランディングチームのサポートで出版させてもらった数冊の著作をスプリングボードに、ニューエイジの旗手の一人として、タイム誌の『20世紀の英雄と象徴トップ100名』(1999年)の一人に選ばれるなど、自己啓発、代替医療分野の世界的な英雄になっていきます。 今や75冊を越える著作と世界で2000万部を誇る著者となりました。

Dr.ナンビ
Dr.ナンビ

  その後、死の淵というより、死んだ状態から復活したマハリシ師の健康管理の為に専属医を探すことになりました。 その結果、アーユルヴェーダ の本場インドのケララ州でも特別なアシュタ・ヴァイジャという6家族しか残っていない系譜の医師が選ばれました。 

 最初にドクター・ナンビというケララ州のヴァイジャきっての名医との名声があった方に白羽の矢がたち、当時のマハリシ師の持病であった坐骨神経痛の治療などに当たられました。 ケララ州トリシュール市で2017年まで治療にあたられ、当番も受診する機会をいただいたことがありましたが、その時撮らせていただいた写真をこちらに掲載しています。 

Dr.ムース
Dr.ムース

 しかし、インドから離れてオランダの地への赴任は辞退された為、もう一人のアシュタ・ヴァイジャの家系であるドクター・ムースが1994年から専属医として招聘されることになります。

  このオレンジジュース事件から不死身の復活を遂げられて約17年後、マハリシ師は90歳にて、マハサマディーと言う永遠の旅立ちを迎えられました。 

  当番はどうした偶然か、亡くなられた直後にオランダの地で、そのお姿にお目にかかる機会に遭遇しました。 

  その後、マハリシ師の築かれた組織を引き継いだのは、チョプラさんのボストン時代の友人であったレバノン人のトニー・ネーダーさんでした。 

 縁は巡り巡り、不思議な展開が起こるものです。

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