瞑想に正しいも正しくないもあるのでしょうか?

今を遡ること30年数年前、埼玉県与野市というところで、1ヶ月ほど寝泊りして奉仕的なお仕事をしていました。 それは瞑想についてもっと学びたい、という当時の願望を実現する為の準備でもありました。

普通の会社勤めの人間が半年間の休職を願い出るのは、日本企業ではそれなりの覚悟が必要です。 断られたら仕事の方を辞める覚悟で申し出ると、すんなりとオッケーが出て拍子抜けしたほどでした。 当時は子供たちが小さかったこともあり、休職ですむならそうしておきたい、という考えがあったことは事実です。

そしていよいよタイ国はバンコクの寺院に寝泊りしての、合宿形式のみっちりした講習が始まりました。 

師匠の話を一言も聞き漏らすまい、と翻訳を通してでない形を希望して一心不乱にノートを取りながら、日課の流れに心地よく身をゆだねていました。

そんな生活が2ヶ月ほど過ぎた頃でしょうか、瞑想に関してなんとも精妙にして、玄妙な説明にバーンと出くわしたのでした。 それは色々な瞑想で使われる真言(サンスクリット語でマントラ)の使い方の説明でした。

そのくだりを聴いた瞬間、自分の中で何かが氷塊し、スコーンと抜けるような気持ちになったの覚えています。 眼から鱗が落ちる、という表現はこのことかと思える瞬間でした。

それと同時に、自分がそれまで10数年間、日々行ってきた瞑想が全く間違っていたことに気づいて、愕然とする想いにとらわれたのでした。 

瞑想は簡単で誰にでも出来ますよ、という説明をマントラのように何度も聞いていたからでしょうか。 瞑想に正しいも正しくないもある、などと言うことは夢想だにしていませんでした。

これまでの月日を返してくれとばかりに、しばし呆然としながらも、フツフツと嬉しさがこみ上げてくるのをどうすることも出来なかったのを、昨日のことのように思い出します。

と同時に、仕事を辞める覚悟で長期休職までして講習を受けようという気持ちに突き動かされていたのは、この気付きの為だったのだ、と俄然ガッテンがいったのでした。 

翻訳を通さずに聴いていたのも功を奏したようです。 なぜなら、あの玄妙な解説のニュアンスは翻訳からは、多分確実に得られなかったと思うからです。

そう、自分の瞑想は全く間違っていたのでした。 よくもまあ、それにも関わらずそれまで10数年も続けてこれたものだと思いましたが、ただただ嬉しい日々があったので、続いていたのだと思いました。

こんなことを書いて、瞑想している人を脅かすつもりは全くありません。 心地よく瞑想が出来ている、座ることが苦もなく続けていられる、という方は全く心配には及びません。 

しかし、自分の場合は明らかに間違った瞑想だったことに気づいてしまったのです。 

では、どう間違っていたのか? 言葉にして記すつもりはありませんが、この気づきの体験が自分の瞑想指導の第2の原動力になっているのは間違いありません。

第1の原動力は10代の後半の自分に突然起こっためくるめく体験でした。 その後に瞑想と出会い、その体験を分かちあいたい、という気持ちは今も変わらず持ち続けています。 

これまでにご縁があって瞑想指導させていただいた方で、もし無理して座っているような感じがあったり、実習しなくなって久しい、というような方がいらっしゃいましたら、このご時世ですからズーム等のテレビ電話システムでご相談にのらせていただきます。 

謹賀新年 食べ過ぎに効くのは?

 明けましておめでとうございます。

 お正月は食べ過ぎてしまうことが多い時期ですが、そんな時はどう対処してますか?

 お散歩する人もいるかも知れません。 もちろんそれは良いことですが、それは腹七分目とか八分目だった時の話です。

 もう動けない〜というほどたくさん食べてしまった時は、散歩しない方が明らかに良いです。

 ならばどうするか?

 自分で出来る最良のことは、五感をシャットアウトして、考えから離れることです。

 そうこれはまさに瞑想で達成される身体の状態ですね。食べ過ぎている時に、身体にとっての最優先は消化です。 体が選択する優先事項を妨げないようにすることが、自分で出来る最良のアクションであり、それはまさに『考えない自分』になることで、身体に思い通りの仕事をさせてあげることが出来る、という訳です。

座禅は瞑想とは違うものなのですか?

 冬の永平寺の山門には、気持ちを凛とさせてくれる荘厳さと厳しさがあります。
 その永平寺では毎年12月と2月に1週間に渡って、食事と洗面所以外の時間は全て坐禅に打ち込む、という修行があります。
 今回はその12月の1週間に渡る坐禅三昧修行が終えた直後に、曹洞宗の大本山である永平寺で参禅に伺いました。
 最終日は最も大変らしく、丸一日坐禅をやった後に、通常は夜9時に就寝するところを、そこからさらに夜中の12時まで坐禅。
 その後に坐禅三昧の感想を師匠に問う時間がある。 そこでこんなやりとりがありました。
 雲水問いて:『もし我見(がけん)起こるときは静坐(じょうざ)して観察せよ、と言われますが、「非思量』(ひしりょう)の坐禅の中において観察するとはどのようなことなのでしょうか』
 天空庵流の質問の意味の解釈は=>『そもそも無心になって何も考えない状態であるべき坐禅中に、考えが浮かんだらそれを観察しなさい、と指導されます。 しかるに考えていない時に、どうやって浮かんできた考えを観察することが出来るのでしょうか?』
 これは真っ当で、良い質問だなと思って師匠の回答を待ちます。
 すると、師答えて:『さて「思量」「非思量」言語にとらわれる道なし。自己の正体を参究(さんきゅう)せよ。』 つまり、考えているとか考えていない、とかの言葉尻に気をとれれていないで、修行を続けなさい、と。
 これはこの肝心要とも言える重要な質問の答えになっていないように思います。
 あえて修行中の雲水さんにその答えをさらに考えさせようとしているのかも知れません。
 この答えの中にこそ、坐禅の先の広い世界の可能性を知る窓口が潜んでいると思えるからです。
 今回はまた、「坐禅をするときは、目は閉じません」と教えていただいたことに驚きます。 目を閉じることは、現世との繋がりを遮断することになるからだそうです。
 現世にありながら現世を超えた境地の体験を求めるのであろう坐禅が、現世に留まろうとさせる修行方法とは一体何なのだろうか、と考えさせられました。
 また、付け加えるように、「目を閉じると、眠くなりますから」とおっしゃられたことには、とても人間らしいなと微笑ましく思いました。
 しかし、寝てしまうことは身体の必要性として、寝ないようにするのも不自然に思えてきます。
 あの有名な警策による、『バシーン』という警告も、坐禅中は体は動かさないように、という警告のようです。
 しかしこちらも、深い瞑想の状態に入ると身体は動くことがあるので、それをしないようにする、というのは深い瞑想に入ろうとしないように誘導している印象です。
 かように坐禅と瞑想は180度言っても良いほどの違いを感じます。
 かたや瞑想が、意識が静かな領域から考えをなくしていこうとするのに対し、坐禅はあくまでも意識を保ち続ける方向に仕向けようとしている印象です。
 瞑想は考えから離れることを意識の拡大の手段に使います。
 どのアプローチが自分に向いているかは、私たち一人一人の選択になります。