仏教に座禅はあるけど瞑想もあったの?

2018.03.09

静坐中『これから日本へ行きますか?』

南インドから日本へ戻る際に、乗継のスリランカで7時間の足止めをくった我々7人のグループは、待合室のベンチに腰をかけておしゃべりに花を咲かせていました。 そこへ、同じ飛行機で日本へ向かうと言うスリランカの若い女性が話しかけてきたのでした。
 

一人で日本の千葉県に向かうところだけれど、心細いので一緒のグループでいられるとありがたい、と言うことでしたので、出発までの時間をご一緒して、スリランカと日本の話題を色々とお話しする機会となりました。
 

そんな中で、すっかり忘れていた昔の記憶が蘇ってきたのでした。 今から33年ほど前、米国東海岸で4人ご家族のスリランカ家庭に、半年ほど下宿させてもらっていたことがあったと。 当時、家と職場が車で3時間ほど離れていたので、月曜日から金曜日はその下宿で過ごし、週末に家に戻ると言う生活をしていたのでした。
 

そこで初めてスリランカ文化の一端に触れました。 そのご家族も仏教徒だと知って親近感が湧いたものの、話を聞いていくと日本の仏教となんだか様子が違います。 その頃は、東南アジアに行ったこともなかったので、上座部仏教(南伝仏教)と呼ばれるアジアの国々で多く実修されている仏教のことをまったく知りませんでした。
 

バンテ師そしてその10年後には、スペインのマドリッドへ行く飛行機で偶然隣り合わせ方が、スリランカ出身でマインドフルネス 瞑想の著書で有名なバンテ師であったことは、こちらのブログに書いたことがあります。
 

その際は、8時間ほどのフライトの間ほぼノンストップでお話しさせてもらったことを書きましたが、そんなに話すことがよくあったな〜と思われたかも知れません。 そう、それまでチャンスがきたら是非聞きたい、と思っていたことがあったのでした。 その際にどんな話だったのか、記憶とメモにあるエッセンスはこんなことでした。
 

当番:『日本の仏教には座禅があり、自分もやってみましたが、”瞑想”とは大きく違う印象でした。 スリランカなどの上座部仏教では、自分の呼吸や感情や身体に注意を向けて観察する瞑想をすると伺いました。 それはどんなことをするものなのですか?』
 
すると、よくぞ聞いてくれました、と言う表情を浮かべられたのでした。 聞いたことのないお経の名前が登場したりしたので、その場では綴りだけをメモして後で調べたことは言うまでもありませんが、こんな回答が返ってきたのでした。
 

バンテ師:『南部上座部仏教では、ヴィパッサナーと呼ばれる瞑想をします。 マハー・サティ・パッターナ・スッタ(大念住経or 大念処経)と言うお経に説かれています。 マハーは『偉大な』です。 サティ(sati)は、『気づき』と訳されることが多いですが、”sarati=思い出す”の名詞形です。 サンスクリット語では、Smrti(スムルティ)になりますね。  漢訳経典では、『念』や『憶念』と訳されています。 英語では、recollectionやmemoryでありますが、それに私は”mindfulness”(マインドフルネス)という言葉を当てました。
 
パッターナは、『目指す」や『前進を始める』という意味のパーリ語です。 これがパッサナーとも音写されており、むしろそちらが普及してしまっていますが、より原音に近いのは『パッターナ』のほうです。 しかし、ここでは慣行に従って、『パッサナー』を使っておきしょう。
 
スッタ(sutta)は、お経のことで、サンスクリット語では『スートラ』(sutra)になります。
これで、このお経のタイトルは、『偉大なる原初の記憶へと向かう経典』になりますね。 
 
そのお経の中では、森の静かなところで体をまっすぐにして座り、身体などの対象に意識を向けて、長く息吐けばそれに気づき、長く息を吸えばそれに気づいていきます。』
 

当番:『そうなると指導していらっしゃる瞑想では、呼吸に意識を向ける、口に入った食べ物をしっかり感じる、今この状況で意識にのぼったものに注意を向ける、みたいな感じになるのでしょうか?』
 

バンテ師:『”ヴェパッサナ”とは、『観察するように意識を向ける』と言う意味なので、そういうことになりますね。』 
 
(当番注:ヴィパッサナー全体を漢字では、『観』と訳されているようで、音訳では、『毘婆沙那』と当てられています。 漢訳で『見』でなく、『観』の字が当てられたのは、英語の”Watch”と”see”の違いに近いでしょうか。 ”watch”は意識的に見る場合で、”see”は漠然と見る場合ですよ、などと説明されたりすることに近いのかも知れません。)
 

当番:『そのお経から呼吸に意識を向ける瞑想が南アジアの仏教では行われているのですね?』
 

バンテ師:『それともう一つ、アーナーパーナ・サティ・スッタ(安般念経)というのあって、これはお経のタイトルからして、吸って吐いての呼吸に意識を向ける方法を説いたお経そのもの。 アーナとは『息を吸う』、アパーナとは『息を吐く』。 サティとは記憶。 サティを『気づき』と解釈してしまうと誤解の元となる。 なぜなら、サティの元々の意味は『思い出す』ですからね。 こちらのお経のタイトルは、『呼吸を通して原初の記憶に達するお経』といったところでしょうか。』
 

とまあ、こんな会話を24年前にしていたことは、自分のメモを見つけるまですっかり忘れていました。
 

因みにヨーガ教室などで教わる”プラーナーヤーマ”と言う呼吸法の名前でも登場する”プラーナ”という言葉は、プラ(原初の宇宙エネルギー)をアーナ(取り入れる)という意味になりますね。  天空庵で時々グループ静坐会にて吟唱する『完全な身体』の最初の出だしの章句は、”プラーナーパーノ〜🎵”ですが、身体を整える基本は文字通り『プラーナを吸って吐いて』であることが、これからもわかります。
 

この時感じたことは、解脱を目指す強い気持ちをもった仏教徒の素晴らしさであり、同時にその手段として『観察』や『気づき』という注意の向け方を使うことに驚きました。
 

ここに大きな岐路が生じています。 気づくのを今この瞬間だと思った人は、呼吸を観察しましょう、と指導するでしょう。 上座部仏教の瞑想であり、最近のマインドフルネス瞑想はこちらではないでしょうか。 
 

『気づくのは今ではなく元々の状態のこと』と知る人は、今の意識から離れるようにと指導します。 天空庵での静坐/瞑想指導は、当然こちらになります。 
 

人は何かを観察しようとする時、注意力をそこに働かせようとします。 しかし、注意力というのは自ら使うものではないです。 私達の注意力は、それが必要な時に自動的に出番がやってきます。 注意力の出番は、自分から作るものではありません。
 

苺のショートケーキを考えてみます。 甘い生クリームやスポンジの食感の記憶を呼び覚まして、食べたつもりになることも出来ます。 しかし、それはどんなに頑張っても、実際に苺のショートケーキを口にした時の感動にはとうてい及びませんよね。 
 

味覚という感覚は、食べものが身体への入り口を通過する時に、食べたほうがいいか、そうしないほうがいいかを判定して、身体を守る為にあります。 それが身体にとって必要な食べものであれば(ストレスがたまっていたりすると間違えますが…)、『もっと食べたい』という衝動として私たちの行動を変化させます。
 

このことからも五感は、苺のショートケーキを食べたとしたら、こんな味だろうな、と想像する為にある訳ではないことがわかります。
 

同様に、私たちの注意力も自分から使おうとする為に、私たちに備わっている訳ではありません。
 

注意力で何かに気づきこうとはしない時、その時その人に必要なものが入り込めるスペースが生まれます。 こちらで指導させていただいている静坐では、観察はしません。 ですから、観察しない、すなわち”マインドレス”静坐とでも呼べる方法をとっています。

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